モヘンジョ・ダロの歴史
モヘンジョダロ、現在のパキスタンのシンド州に位置する遺跡は、古代インダス文明の象徴的な遺産として知られています。その起源は紀元前3300年ごろにさかのぼり、インダス文明の初期段階であるコート・ディジ文化に由来しています。コート・ディジの人々は、頻繁に発生する洪水により自分たちの地域での生活が困難になり、川に近く地形が高い場所を新たな拠点として選びました。こうして彼らはインダス川沿いに新しい定住地を築き、モヘンジョダロという、古代の最も洗練された都市のひとつが誕生しました
モヘンジョダロの建設と都市計画
モヘンジョダロは、現代においても驚くべき水準の都市設計を誇り、徹底的に計画されていたことがわかります。都市は明確に4つのエリアに分かれており、それぞれ異なる社会的・経済的な役割を果たしていました。この分割には次のエリアが含まれます。
- 商業エリア(SDエリア): このエリアは商業活動に特化しており、取引やビジネスが行われる場所でした。市場や店舗が並び、都市内外との交易が活発に行われていたことが示されています。ここから発見された計量用具や様々なアイテムは、都市の商人たちが高度に組織化された交易システムを持っていたことを示唆しています。
- 富裕層居住エリア(DKエリア): DKエリアは、都市の上流階級が住むエリアで、家々の質や規模からもその豊かさがうかがえます。家は焼きレンガで建てられ、複数の部屋や浴室が備わっており、排水システムも整備されていました。このことは、都市の富裕層が高い生活水準と建築技術を享受していたことを示しています。
- 貧困層居住エリア(HRエリア): 一方で、HRエリアには都市の労働階級が住んでおり、建物は簡素で小さく、資源も限られていました。しかし、こうしたエリアでも、都市の基礎インフラが整備されており、住民は基本的な衛生施設や共同井戸を利用できました。
- 工業エリア(VSエリア): VSエリアは、製造業や工芸品の生産を担う工業地区でした。ここでは陶器や道具、インダス文明で有名な印章などが作られ、交易や宗教、行政で使用されたと考えられています。炉や窯の跡から、モヘンジョダロが高度な職人技術の中心地であり、様々な産業が都市の経済的繁栄に貢献していたことがわかります。
社会、経済、そして文化
モヘンジョダロの人々は、都市計画だけでなく、文化や日常生活の面でも高度な発展を遂げていました。統一された建築物や優れた水道技術からも、彼らの社会が驚くほど組織化されていたことがわかります。都市内には井戸のネットワークや排水システムが備えられており、各家庭から排水が流されていました。このような設備は、古代においては非常に稀なものでした。
また、都市の経済には農業が不可欠で、インダス川沿いの肥沃な土地で穀物や他の作物が豊富に栽培されていました。交易も重要な役割を果たしており、遺物からメソポタミアなど遠方の地域との長距離交易が行われていたことが確認されています。これは、モヘンジョダロが広域な古代文明のネットワークにおいて重要な役割を果たしていたことを示しています。
モヘンジョダロの衰退と滅亡
紀元前1700年頃、この繁栄した都市は徐々に衰退し始めました。その原因にはいくつかの説がありますが、最も有力な説の一つは洪水の繰り返しです。インダス川に近い位置にあるため、モヘンジョダロは季節的な洪水によりインフラが徐々に弱体化していったと考えられます。遺跡から発見されたシルト層や修復された痕跡から、災害後に都市が何度か再建されたことがわかります。
さらに、同時期にアーリア人の侵入があり、これがインダス文明の社会経済構造を大きく揺るがしたとされています。新たな影響が地域文化を変化させ、住民が分散していく結果となりました。
また、一部では地震が都市の崩壊に寄与した可能性も指摘されています。このような自然災害は建物を不安定にし、都市を居住不可能にした可能性があります。紀元前1700年頃には、洪水、地震の可能性、アーリア人の移住といった環境・社会要因の組み合わせによって、モヘンジョダロは放棄され、古代世界の最も進んだ文明の一つの終焉を迎えました。
今日、モヘンジョダロの遺跡はユネスコの世界遺産に登録され、インダス文明の知恵と高度な技術力を伝え続けています。
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