ガンダーラ(GANDHARA)
三千年以上も苗、遊牧民であったアーリア人は、中央アジアから ガンダーラ地方に移動し、この地の登さをたたえた賛歌を作りまし た。後に、これらの賛歌がリグ•ヴエーダの中に取り入れられヒンド ウ一教の起朦を示す神聖な経典となりました。
アケメネス朝ペルシブ:紀元前5 5 8年〜5 2 8年 アケメネス朝ペルシアを建国したキユロス大王(前5 5 8年〜5 2 8 年)は、領土をペシヤーワル平原まで拡大しました。続く、ダリウ ス(前5 2 0年〜4 8 6年)は、ガンダーラ地方をもペルシャに 併合しました:0
マケドニアのアレキサンダー大王:前3 2 6年 アレキサンダー大王は、アケメネス朝を破り、インドに侵入すべく、 ガンダーラ地方まで進軍して来ましたが、数ケ月後には、本国帰還 を求める自軍の反乱により、インド征服の夢は実現しませんでした。 アレキサンダー大王は、インド初代皇帝となったマウリヤ葫のチャ ーンドラ•グプタと会った後、この地を去りました•
マウリヤ朝:前3 21年〜18 0年
チャーンドラ•グプタ(前3 21年〜2 9 7年)は、タキシラで 王位に就き、その後、都を2 0 0年前にプツダが説教した地である パトナに移しました。タキシラは、皇帝の孫•アショー力が大守と して統治しました。
仏教は、前2 7 3年から2 3 5年までのアシ3—力王の統治時代に、 マウリヤ朝にしつかりと根を下しました。多くの巡礼者が、タキシ ラに集まり、また、この地の大学で学ぶために滞在する者もいまし た,こうして、ガンダーラは、仏教徒の聖地となりました• 外国からの侵入者:前18 0年〜後6 4年 アショ力王の没後、この地方は、2 5 0年閭にわたり、政治的不安 定に悩まされ統けました•中央アジアから、パクトリア系及びイシ ド系ギリシ:T人、シジア人及びペルシアからの‘パルチア人などの 都市国家が興亡しました,
クシャーナ朝:6 4年〜2 41年
毽々の民族交代による文化の*!I合は、6 4年ごろにアフガニスタン から来たクシャーン人のもとで、全盛期を迎えることとなります• クシャーン人の倕大な王•力ニシカ(12 8年〜151年)は、こ の地をアラル海からガンジス川、パミール*原を越えた亜大陸の 中央より中国国境に至る大帝国の政治•文化の中心地にしました。 強大な統治力は平和をもたらし、前例のない繁栄を築きました。
力ニシカ王により仏教が保護されると、ガンダーラの餚院は、再び、 巡礼者や修業備で两ちあふれるようになりました。
僧院は、優れた芸術家によって飾られました•これらの芸術家は、 アケメネス朝時代からの興文化の混入によってもたらされた様々な 伝統に通じており、たくみに東西芸術の融合を図りました。こうして、 ガンダーラ美術の手法が完成されたのです。この手法は、非常に ダイナミックで、その後、5 0 0年間も統き、中央アジア、中国 及び南アジアの芸術に多大の影響を与えました。
新たな侵入:2 41年〜8 7 0年
クシヤーン人の滅亡により、新たな侵入者が現われました。3世紀 には、ササーン朝ペルシアによって併合され、5世紀には、中央 アジアのエフタル族が侵入して来ました。既に、仏教の最盛期は過 ぎていましたが、仏教巡礼者は、ガンダーラへの珍拝を嫌けていま した。また、中には、チペットの仏教徒のように、16世紀まで 巡礼を行なう者もありました。たび霣なる洪水と地»のため、民心 は荒廃し、社会不安となり、次第に衰退への道をたどりました。
また、潜院は、尉政的援助を失ない、傾達は、各地へ去って行きま した。
匕ンドウ一•シヤーヒー:8 7 0年〜10 01年 9世紀の中ごろ、ヒンドウ一•シヤーヒーが興こり、匕ンドウ一教 が復活しました•そして、再びリグ•ヴエーダの神々がこの地の信者 に想さめを与えることになりました。
ガズニー朝:10 0 1年以降
11世紀に、ガスニー®のスルターン•マフムード(997年〜
10 3 0年)が、アフガーンの丘陵地帚から熱狂的イスラーム信者 として現われ、10 0 1年に、匕ンドウ一•シヤー匕一のジヤヤパ 一ラ王をペシヤーワルで破りました。
石の部タキシラの物語は、ガンダーラの歴史そのものです•
タキシラは、古代より、商業及び軍事上の重要拠点であり、歴代の 支配者の下で繁栄しました,
11マイルも統くタキシラ溪谷は、三方を山に囲まれています• したがって、侵入者は、唯—の入口である西方よりやって来ました。 これらの侵入者を防ぐために建股された4つの都市の歴史は、ガン ダーラと密接なM係を持っています。
ビール丘(混雑した丘):紀元前6世紀〜同2世紀 最も古い都市は、アケメネス助時代からのものであわ、紀元前6 世紀にさかのぼります• W 3 2 6年には、アレキサンダー大王が、 この都市に3ケ月程滞在し、タキシラの®裕な王アムビーから惜 しみのないもてなしを受け、大いに楽しんだと言われています。
その約3 0年後に、アシa—力王子が、この地の太守となり、
前2 7 3年、王位に就いた後も、この都市を愛し統けました。
マウリヤ朝の支配のもとで、タキシラは、大教育都市となり、大学 では、法律、歴史、哲学、神学、社会•政治科学、兵学、医学、
芸術等、広範囲な教科が教えられていました。今日、聞き憤れない 科目といえば、「象の追い立て方Jというものだけです•
シルカップ(切られた頭):紀元前2世紀〜後2世紀 パク卜リアの征服者は、前18 0年ごろ、ビニル丘の北東半マイル の所に、新しい都市を建股しまし;C0碁盤目状に作られたこの都市 は、後に、パルチア城サイ都市の城外に位置することとなりました。 シリアのキリスト教徒の伝承によれば、後4 0年ごろ、顴|^一マス がシルカップにあるパルチア王ゴンドフアレスの宮廷を訪問したと い5ことです。
シルスーク(栄光に嫌ちた軎び):2世紀〜8世紀
2世紀の中ごろ、クシャーナ朝の力ニシカ王が、シルカップよ り1• 5マイル北東にあるシルスークに都市を建設したと伝えら れています• 4 6 0年ごろ、エフ;SUレ族が、この澳谷に侵入し、大 規模な破壊を行ないましたが、その後も、この地を肪れる入々は、
8世紀の終りまで統きました。肪問者達は、鹿戚の様について著 しているほか、小規模ではあるが継統的に再建されつつあるという 現状についても書き残しています。
前2世紀に建股された古代ギ1Jシアの寺院•ジャンデイアールは、 シルカップの北門に向かい合つています。また、ギリシア神聒から とられた官能的な場面を刻んだ無数の小円形の液石皿は、シルカツ プにおいても、ギリシアの酒神•デイオニソスの祭ネしが行なわれて いたことを想像させます。
その後も、仏教は繁栄を統けました•シルカップの南門に向かい合 つている丘陵の中腹にあるクナラ•ストウ一パは、アショーカ王の 子クナラが継母に目くらにされたといわれている所です。
Taxila—Buddhist sites タキシラ•仏教徒の遺跡
ダルマ•ラージ力(王の法> •ストウ一パは、タキシラの仏跡の 中でも、最も古い時期のもので、チール(切れ込み)•ス卜ウー パとして知られており、ビール丘より、1• 5マイル東に離れた丘 の上に雄設されています。紀元前3世紀ごろ、アショーカ王は、タ キシラの周辺にいくつかのス卜ウーパを建てたといわれています。 おそらく、これらのス卜ウーパには、プッダの遑骨等が納められた ことと思われます。しかし、現存する遗跡は、最も古いものでも 1世紀ごろのものです。これらのストウ一パは、少なくとも三期に 渡り拡張されたようです。今日、表面に見られる石は4世紀のもの ですo中心のストウ一パを輪のように囲んでいるストウ一パ及び礼拝堂は、
5世紀に至るまでの約4 0 0年閜に渡り付け加えられたものです。 後期の例を2つ、タキシラで見ることができます•シルスークの 南東1マイルの峡谷にあるモハラ•モラドウは、3〜5世紀のもの で、ストウ一パよりも湔院の方に重要性が置かれています•発掘以前 には、ス卜ウーパの先端が見えていただけです,
は、地上の楽面!に铳く神々の楽®を思昧する円盤に囲まれています。 ブッダの教えを広めるために、様々な主理が選ばれました。ブッダ のi3後の生まれ変わりであるゴータマ•シッダールタ王子(前 5 6 3年〜4 8 3年ころ > 時代の生命の危機や、プッダの前生等 を明らかにしてくれます。前5 2 8年5月、3 5オの時に、シッダ 一ルタ王子は倍れる者として最高のプッダとなりました。
ガンダーラ美術は宗教芸術ですが、珍拝者にとって自己とのかかわ り合いが容易になるよう、製作者は日常的なものを描写しました。 従って、今日でも、これらの作品からガンダーラの日常生活を伺う ことができます•
Peshawarペシャ一ワル
紀元前4世紀、アレキサンダー大王は、主力軍をアフガーン畤よ りガンダーラ地方に進攻させ、彼自身はスワートに北上し、側面攻
#を行ないました。アレキサンダー以後の数世紀閭ノほとんどの隊 商は、チヤールサダーに直通するハイパルの北部畤を通過していま した*
2世紀には、ペシヤーワルがクシヤーン帝国の冬期首都になり、ガ ンダーラ地方の中心都市としてチヤールサダーに取って代わると共
に、ハイパル畤が主要な交通路となりました。交易品を携さえた商 人達が、中国、中央アジア、ペルシャ、ローマなどから、シルクロ
-ドの重要な集敝地への入口であるこの時に殺到しました。今日に 至るまで、この光景は縞いています。シルクロードには、迷路のよ うiこ無数の間道がありますが、隊商は、これらを通じて各地よりぺ
シャーワルに集まって来ました•
仏教徒の使節団や巡礼者が肪れるようになりました。仏教儋院がハ イパル畤の途中に建股され、旅人に憩いの場を提供しま.したO現在 残っているスポーラ•ス卜ウーパに、当時の栄華を見ることができ ます。、
2世紀初頭、ペシャーワルは、プルシャプラ < 花の都)と呼ばれ ていましたoこれは、クシャーナ朝の力ニシカ王の仏典結集による 仏教のM花と仏教徒の憤習に»するものと思われます。
Charsaddaチヤ 一jレサ气一
プシユカラヴアテイ一(ハスの町)は、アケメネス朝に併合(
前518年cろ)される以前から、ガンダーラの首都として栄え ていました•また、隊商の町でもあり、タキシラへの中雄地となっ ていました。前3 2 6年4月、アレキサンダー大王がこの町を攻 撃した時には、堅固な城サィ都市で、陥落させるのに3 0曰もか かっ:fと雷われています。
今日、プシユカラヴアテイは、現在のチャールサダー(ぺシャー ワルの北東2 0マイル)から西方1マィルのところにある、高 さ7 0フィートの浸食された丘となって残っています•この丘は、 パラ一•匕ツサ一ルと呼ばれ、紀元前6世紀から18世紀までの
2 5 0 0年間に、5 2回にもわたり興じを緹り返しました•複雑に 入り組んだ狭い路地から成るこの町は、丘のふもと5 0ェ一力一 にわたり5:がっています。
アレキサンダー大王以後の2世紀半は、北西方面からの興民族の 侵入が統きました。これらのうち最も注目されるのは、前16 0 年ごろ、カープルよりパシジャ一ブに入ってきた、インド•グレコ 全のメナンドロスです。その治世10年ごろに大改革を行ないま したo
メナンドロス王は、パラー.ヒツサールを捨て、半マイル程北に、
現在も残っているシェイハン•デへリー(首長の丘•)という町を 雄設しました。この新しい町は、半マィルの長さで、最新のギリシ ア都市»画に基づき碁盤目状に建股されました。道路は全て直線的 で、町の中央(こは、壮麗なス卜ウーパが建てられました• メナンド ロス王は、#名な仏教の保護者でした。
この時より1世紀前の紀元前3世紀ごろには、アショーカ王のも とで、ガンダ"1ラ地方に仏教が定着しましたが、この新興宗教の支 持者連は、大衆の支持を得るため、その地域にある遗跡をプツダの 前世にぉける出来事と結びつけました•このハスの町では、プツダ は千回生まれ変わり、それぞれの生に:》いて、人々のために自分の 目を犠牲にしたと伝えられています。
アシa—力王は、Cの崇高な行為を起念して、この地にストウ一パ を建てました。
われたのがガンダーラでした。それまで、«像を作ることは*じら れていたため、ブッダはボダイ樹の下に!■かれた蓮睾座や法_によ って象欲されていました。
困っている人々に対する、プツダの奇«のような救済についてもa り伝えられました•その中の一つは、無抵抗供欲主義者の一派に厲 する家庭に嫁いだ女スマガダについての話です。ある時、彼女は、 仲閜と雪い争いになり、そのうちの—人に暴力をふるいました•逆 上していたので、が脱げたことKも気がつかないほどでした• 名誉を失ない、その上、追Kの宣告を受けた彼女は、プッダに祈り ました。すると、彼女の救済のために、天から鋒りて来たブッダは、 足と*!から炎を逆らせていました•これを見た人々は、S敬の念を 抱き仏教に帰依しました。
な彫刻が発見されました。この地域には、现在、村落となっている 嫌所の地下に眠る、サハリー•パハロールやスイクリーといった古 代の町もあり、また、このほか、書ききれない程多くの丘がありま
北にある湔院は、おそらく2指速てになっていたようで、台所や食 堂の付いた個室に囲まれた中庭があります。西方には、二列に並ん だ地下然想室もありますO
Ashoka Inscriptions アショーカ王の碑文
7シB—力王は、瓴土拡張のため戦争を行なつていた鼷、紀元W 2 6 0年に、ある町に与えた悲®さについて、大へん後悔しました0
彼は、自国内の悲しみを無くすることを®い、そのために、各地に 知事を配置する等、次々に改革的な政令を発布しました。
I 4の政令が発布され、前2 5 7年以降、全国各地に、7 *の政令 を刻した巨大な石柱が建てられました•そのうち、最も完全なまま
で残っているものが、ガンダーラに2ケ所あります•一つは、マ ルダーンの東方10マイルの所にある、中世イスラーム«*•シヤ
一ハ•パーズ•カランダルに因んで名付.けられたシャーハ•パーズ• ガリーという名の村の近くにある自然石の上にあります。他の一つ
は、アボタパードの北方18マイル、インダスJH東方のマンセへラ の郊外にある3つの丸石の上にあります。
これらの政令は、道徳の基本厫理でした,女性による無益で不快な 儀式;と同様、殺や、人や動物の生にえの廃止、両親への従順さ、
友人、使用人、聖應者、あるいは、種々の動物に対し親切であるこ と、また、正しい行ない、自制、道徳的な行ないをすること等を勧
めました•また、その他、政令の中には、人閭のみならず勳物につ いても、医Sセンターを作ろうとするアショーカ王の意0を知らせ
るものや、国内に広く政令が行き届くように、特別道®官の任命を 知らせるものもあります,
Shahbazgarhi シャーハ•パーズ•ガリー
アシ3—力王の石ft■八は、チャールサダーからタキシラへ向う古 遒の途中にある、シャーハ•パーズ•ガリーのような最大の注*を 引く巡礼地や、商業中心地に建てられました•
仏教徒は、シャーハ•パーズ•ガリーで、ヴイスヴアンタラ•ジャ 一タカを連想するものでした•この物路によれば、ブッダは、最後 から2番目の生まれ変わ0であるヴイスづアンタラ(宇宙)王子 として生まれ、完全なるtt着を理解しました•この说話には多数の 神話がありますが、それらは、アシa力»文から谷をttえた反対側 にある、メハ•サンダ(雌雄の水牛)と呼ばれる*い丘»上で発猫 された、3ケ所の遣跡群に見ることができます"
Hundフンド
古代K商路《、シヤーハ•パーズ•ガリーを過ぎると、インダス 川を渡るため、フンドから南へ向いました•
この町は、古くは、ウダパンダブール(水がめの町)と呼ばれてい ましたが、その名は、おそらく、水がめで作られたいかだに由来し ているものと思われます•夺れは、今日でも、この地域一帚で使わ れている、羊皮袋に空気を入れて作られたいかだと非常に似ていま す。何世紀もの藺、フンドは、中国、ローマとインド亜大陸を結ぶ シルクロードの大中雄地でした•ここは、ムガル带国のアクパル大 帝(丨5 5 5年〜16 0 5年)が、16マイル下流のアトックに城 サイと船«を作るまで、インダス⑴の主要な渡し*としての地位を 占めていました。
アレキサンダーの一万の将兵とおびただしい数の励物は、フンドに おいて、彼らの為に特別に作られた欏を利用して、インダス川を 渡りました。タキシラの王は、フンドで、アレキサンダー大王に合 流すべく、7 0 0の»兵送ったほか、銀2 0 0タラン卜、犠牲用牛 3000頭、羊1 0000頭及び別練された象3 0 3を獸上しまし た。アレキサンダー大王は、B嵌と馬?Sの競技で、将兵を楽しませ た後、犠牲を捧げ、吉兆を見るやいなや、早®、インダス川を渡 河し、インドに侵入しました。
6 3 0年に、中H人巡礼者玄英が醫き著しているように、当時、ィ ンダス川を渡るのは、弈常に危驗なととでしたJ*スイン•ツー( インダス)は、大へん誓んだ急流で、»罐や*霊が川底に住んで《
り、珍しい宝玉や名花、あるいは、経典を乗せた船は、突然、波に
ウデイヤナ(庭S)という呼び名は、スウアス(美しい住処)ill に由来するもので、現在のスワートを適切に表現しています。マー ラーカンド畤を越えた、タフテイ•パヒーの北部山脒に位臛するス ワートは、これまで、政治的には、低地地域への従厲と独立をくり 返して来ました。文化の交流は、両地域に影響を与えましたが、な Wかつ、スワ一卜は、独自の文化を作り上げて来ました, アレキサンダー大王は、一個機動部隊を蓽いて、現在でも、チ卜ラ 一ルのカラーシュ族により輓けられている、アニミズムの儀式を行 なっている人々の領地を通って、これらの丘に入りました。チヤク ダラでスワート川を越え、首都サイド一•シヤリーフから6マイル 下った所にある、インド人の支配するオラ(現在のウデグラムで、 高い村の意)を征服するために北上しました。
仏教伝説によると、最後の生まれ変わりであるゴータマ•プッダと して、スワートに来たことになっています,ブッダは、前生に^5い て、度々肪れたことのある場所を再び肪閜しながら、これまでに学 んだ教明を、一つ一つ説いていきました。そして、人々はそれを聞 いて改宗したのです》
ブツダは、サイド一•シヤリーフの北10マイルの所にある村ジヤ ハーナパ一ドW近の丘の中腹で、人々と獰々の两方に説敌をしまし た•不思■なことに、プッダが、そこを去ると、山から、石のスト ウーパが出現したということです。現在、丘の上にある丸石の山は ス卜ウーパの形を思い起こさせます。また、谷に面した丘の側面に 彫られたプッダの座像は、すばらしい出来映えです。
最も大きくて立派なものは、スワート博物館から1マイ ル足らずのプトカラ(俱像寺院)にあります。そこでは、大ストウ 一パの两りに、麵り付けられたストウ一パ、ネ_當、円柱等が2 0 5 もあったということです•今では、元の位置には、ほんのわずかな 飾りの»しか残っていませんが,、スワート博物館で、何点かの実物 を見ることが出来ます。
他にも、チヤクダーラのデイ一ル博物館で、独特の®示品を見るこ とが出来ます。また、この博物館は、特にすばらしいカタログを提 供してくれます。
7世紀末になると、休眠状顦にあった地方祭礼が、復活してきまし fc.この地方独特のよう精や精Hを仏教に取り入れた、タン卜ラ仏 教が、勢力を得るようになりました•その後、イスラーム教が蹙ん になつてきましたが、16世紀に至るまで、依然として、タントラ 仏教の発生地として、チぺツ卜からの巡礼者が集まって来まし/1,
スワートの北部と東部のニ地域は、世界でも有数の高鋒が連なっ ています•カラコルム山供は、年中荒れてぉり、ほとんど、人をS せつけない所ですが、立ち入ることが不珂能ではありません•
何千年もの間、隊商連は、ィンド亜大陸の穀愈地帯への近道として、 又逆に、伝説の中Hへ向かう途中にある、中央アジアの隊商の町へ 向かって、高しい畤を勇敢に進んだのでした•今日、嫌装され た主要遒路が、カラコルム山脈の支脈に沿って、フンジャラプ«を 越えています*
仏儎が粗に浮彫りにされている所が• 2ヶ所ありますが、大へん典 昧をそそります*ギルギッ卜の西方4マィル、力ルガ•ヌッラー の入口にある岩尾根の地上3 0フィートの所に、高さ9フィートの 仏徽が立っています•また、用東のパルーティスタンにあるサトパ ラ«谷の入口には、丸石に彫られた仏生像が、スカルドウの町を見 下ろしています。この仏徽は、プッダの入滅から5 0 0 0年後に、 この世に現われる•とされている未来仏であるマィ卜レーヤの立像に はさまれた形で座っています•
ストウ一パや魔よけの祈りを行なっている人の驗も、»しい山道に 沿って彩られています*これらは、憑魔を*け、安全な通通を感謝 し、また、功德を潰む行為としてのものや、通«する人への霪さめ としても作られたようです。時には、ストウ一パと動物の輅が、冏